自分でイカサマだと気づかなければイカサマにはならない=27年目の4.26チェルノブイリデー市民講演会

掲載日:2013.04.30

4月26日18時から、「27年目の4.26チェルノブイリデー市民講演会~三人寄れば《もんじゅ》を止める知恵~」が開かれ、全道から多くの市民らが参加した。

 講演会は、アーサー・ビナードさん(詩人、俳人、随筆家、翻訳家。1967年ミシガン州生まれ)を講師に迎え、「広島文化賞を受賞したアメリカ人が、問題の核心に切り込み、日本の出口戦略を語る」と題して行われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【アーサー・ビナードさん】

 

講演の始めに、みずから執筆した、ヒロシマから今を見つめる写真絵本「さがしています」を朗読した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アーサーさんは「1995年に初めて日本の広島を訪問し、被爆体験者から体験談を聞いた。『ピカドン』という言葉は場所によって表現が異なる。爆心地では『ピカッ』、爆心地付近では『ピカー』と表現されている。『ピカドン』とは、光速と音速の時間差ができる距離を表している。今まで聞いていた『原爆』や『核兵器』という表現は『上から目線の心が見えない言葉』だ。それを考えることで、見えてこなかったものが見えるようになった。イカサマは自分でイカサマだと気づかなければイカサマにはならない」と述べた。

 また、「原爆を日本に使用したのは、『戦争を一刻も早く終わらせるため』と教えられてきたが、それはペテンだと気付いた。しかし、当時から米国連邦政府のPRはうまく、米国民は感情的に反発する仕組みが今も多数派を占めているため、それを米国民に話しても理解してもらうのは難しい現状だ」と述べた。

さらに、「1941年の真珠湾攻撃では、当時最新鋭の米国空母は偶然真珠湾から離れていた。そして半年後の1942年のミッドウェー海戦で日本側の主要空母は沈没し、日本の敗戦はこの時点で決まっていた。それなのに原爆を投下した。被爆後『ヒロシマ』に住めるようになったのは、1945年9月17日の『枕崎台風』のあと(長崎も同様)。台風で海に汚染した土や水が流れ出たから。しかし、瀬戸内海に流れ出ただけできれいになったからではない。その事実はあまり報道されていない。放射能汚染された土や水は除染することは不可能、福島でも行われているが、『移染』してごまかすことを『除染』していると報道しているだけ」と批判したうえで、「マンハッタン計画の実施者はこれも想定して計画をしていた。海沿い、台風、都会から離れ情報が漏れない都市として『ヒロシマ』『ナガサキ』が選ばれた。街道で近くの都市とつながるような都市は『核の恐怖』がばれてしまいごまかせないので選ばれなかった。京都に投下されなかったのは、盆地で海に流れて行きにくく大阪など都市部に近いからだった」と述べた。

 また、「ヒロシマはウラン型、ナガサキへはプルトニウム型の原爆が投下された。ウラン型は当時どうでもいい古い技術で廃品利用に過ぎないものだった。1945年7月16日に人類最初の核実験「トリニティ」がニューメキシコ州で実施された。このとき使われたのはナガサキと同じ「プルトニウム型」。最初に被爆したのは日本人ではなく米国民だった。1942年12月2日からプルトニウムは製造され、マンハッタン計画は『核で世界を支配したい計画』として実施されていた」と述べた。

最後に「天然ウランは、核分裂を起こさないウラン238(238U)が99.3%、核分裂を起こすウラン235(235U)が0.7%の割合。235Uをほとんど含まないウランを劣化ウランという。235Uの割合を高める技がウラン濃縮され、必然的に238Uの比率の高いウランが生成され、それが中性子を吸収した結果プルトニウム(239PU)が生まれた。原発(軽水炉)は、ウラン濃縮から発電・再処理の一連の工程はプルトニウム製造装置ということ。発電は『後付け機能』に過ぎず、TVショッピングについてくるおまけみたいなもの。原発は核兵器を製造するためにつくられていることを忘れてはならない。みなさんと一緒に核兵器をなくすため活動していく」と述べた。